不倒翁(おきあがりこぼし)

うつからの再生

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うつの症状とうつになった原因 治療法について

 

 

うつへの階段を転落していく

はじめに

まず私がうつになる原因から書かなければなりません。
うつはいきなりはならないからです。
脳のホルモンバランスがどうだのセロトニンの放出ができなくなっているだの、それがあるからうつになるって研究成果が発表されても、結局は半生での出来事で落ち込んだりするもんです。

うつになった人の話を聞いても、うつになって当たり前のストレスやプレッシャーを浴びて生きてきた(またはうつになりやすい性格)からなっています。
心因性のうつなら必ず原因があり、だからこそ良くなります!

うつになるルーツを分析して、まずは頭で理解し、客観視でき、感情で理解すれば、ストレスそのものへの負荷がなくなっていきました。
最終的には心根で納得すること、これが気持ちを落ち着かせてくれました。
脳は原因がわからず足掻く時、混乱し不安が増し、恐怖に支配されます。
それがうつが激悪化させてしまいます。

例えが悪いかもしれませんが、自分は呪われていると思いこんでいる人がいるとしましょう。
霊媒師が「あなたは狐の例に取り憑かれているから苦しんでいるんだ。稲荷神社にお百度参りすれば治る」と言われて、
その人が納得したとしましょう。
不思議と原因がわかり(本当の原因が重要ではなく、本人がそう思いこんでいることが重要)、呪いが解ける(=安心できる)という例はいくらでも探せばあります。
それだけ、脳みそは、今起きている不都合な状況の原因をはっきり自覚した時、怯えや不安を発することをやめてくれるのです。

ルーツ分析・整理は、うつという性質上、そしてやる人の人生のつらさにより、落ち込みを少なからず伴います。
でも、やらないままだと、幾分回復したところで再発の恐れを伴います。
私の経験ではたしかにそのとおりで、原因を無視したら、いつまで経っても脳が不安がってしまいました。

ただし、一人で悶々とやってしまうと、余計落ち込んで最悪な精神状態になってしまいます。
私は岩波英知先生のトランス状態の元で、ルーツ整理を行いました。
不思議とどんどん気づきや発見があり、その都度、すーっと心が落ち着いていきました。

そうなると、家でもたくさんのうつの気づきや発見がなされるようになり、一人でのルーツ整理も有効になっていきました。
きちんととトラウマや原因に当たるものを消化して、ストレス要因を排除していくことで、きつい抑うつ状態から回復することができました。

抗うつ剤で症状をいくらか和らげても、うつが治らないのは原因から対処できないからです。
うつのどん底の苦しさを知っている私としては、完全に抗うつ剤を排除しろと言えませんが、
うつを脱却するには、絶対抗うつ剤だけではダメだと思っています。
またそれを信念として持っていたからこそ、乗り越えられたと思います。

 

なぜルーツ分析を掲載しているか? ルーツ分析の意義

ルーツ分析をすることでうつ回復のきっかけになったからです。
自分を客観的に分析し、かつ、感情的に入り込むという二つの視点からやっていくと良かったです。
決してうつのルーツを排除するのではなくて、ありのまま受け入れること。
そして、ありのまま受け入れることができたら、うつのルーツがどんどん消化されていきます。

「この落ち込みは、こういう原因があったからこそ」と知ることで、私はうつから徐々に回復傾向に好転していきました。
そうなると落ち込んでいてもいいんだという肯定的な感情が出てきました。
落ち込んでいて当たり前、こうなったのも当たり前という考えが、心に余裕を広げてくれました。
脳が理由がわかったから、がたがた騒ぐことはないと判断したのでしょう。
だからこそ、自分のうつのルーツ分析は必要です。

私のうつのルーツ(原因)

──両親について──

両親とも厳格な人で 完璧主義者
しっかりしている人間で、隙を子供の私に見せなかった。
立派な人物と世間では目されていました。
それが第一の目的だったのだから、成功していたのでしょう。
世間に出たら、それはもう厳しく立派な雰囲気を身にまとっていました。

しかし、私や家族の空気には悪影響だったのです。
夫婦でも本心や地を見せ合ったことはないと思う。
常にぴりぴりと神経が貼っているような感じだった。
ものすごい窮屈な家族だった。
私が子供時代の家族を思い出すと、窮屈、窒息というキーワードがすぐ浮かびます。

うつになる人はこういう家庭が多いかもしれません
私が今まで出会ったうつの人は、こんな家庭が多かったですから。
何かうつになる方程式が作れるかもしれないほどにです。

問題は、その家庭環境で小さい頃から教育されたら、うつになりやすい性格になると言うことです。
完全主義者、生真面目、手を抜けない、遊びが下手、我慢強い、地を出せない、演技をして生きる、感情表現が下手、頑張りすぎる、自分を追いつめる
ざっと書きましたが、こういう共通点をみんな多かれ少なかれ持っていると感じました。

両親は教育を厳格にやっていくことに血道をあげて、その影響をまともに受けて育ってしまった。
一番をとることを義務づけられ、4,5番になったときには親父に殴られた。
成績が芳しくない時の恐怖といったらなかった。
家に帰りたくなかった。
どんなに叱られるか不安だった。

友達は青ざめている私を見て、成績がいいんだから何でそんなに心配なの?と不思議な眼で私を見ていた
今思うに、小学生の頃から抑圧の塊だった。
遊びも許可を取らないといけなかった。
試験が毎回恐怖だったし、同時に、一番にならなくてはいけないプレッシャーも大きな重荷だった。

何の因果か完璧主義者の子供は完璧主義者になる。
完璧主義者はうまくいっているときは、非常に心ものってくるものだし、そういう時期も確かにあった。
しかししょせん人間は人間。
完璧にいくことはないし、周囲が完璧にいかせないときもある。

今思えば人生なんて失敗の連続だ。
失敗があるから、更に上を目指そうと頑張れるのに、失敗を恐れていたら何にもできなくなる。
完全にうまくいかないときの方が多いくらいだというのに、失敗を恥と無意識に植えつけられた。
だから、そこで悩んでしまうんだと思う。

完全主義者は悩みやすいというのは当たり前すぎるほど当たり前だ。
しかし完全主義者は、悩むことすら受け入れず、さらに頑張る。
されど劣等感を感じる。
つまり完全にやろうとしても完全はあり得ないことだからだ。

人から見たら成績も良く、スポーツもできるということでうらやましがられたこともある。
しかし、私は劣等感の塊だった。誰よりも怯えて生きていた。それを隠しながらも。
思うに、自分に満足したことはなかった。
人よりも色々とできる能力はあるとは感じていたが、それが充実感、満足感になっていたかというと違っていた。
どんなに人よりも体裁を整えたとしても、いかんせん自分の心は騙せないものだ。

親の教育もあり勉強もスポーツも完璧にいかなくちゃすまなくなった。
もっと肩の力を抜いて気楽に生きれば、と人は言うが、どうしてもできないのは、親の教育が大きい。
自分をどうしてもそこに追い込んでしまう。

グータラやすぐあきらめる人間(でも楽しく生きられる)と完璧主義者(見返りはほとんどない)、どちらがいいかと問われると──
私はそれでも後者を選んでいたと思う。
あきらめるとかぐうたらするということができないタチだった。
完全にすり込まれていた。

でも、程度というものがある。
余裕と心の枠を持たせないと長い人生やってはいけない
完璧にやるためには、すべて完璧にやるのではなく、どこか完璧を捨てることで、結果を出せばいいと今は思えるようになった。
広い視野・柔軟な思考をもてるようになったと思う(これもうつ脱却に必要な要素だった)

こういう観点からも、私の人生のどこにうつになる原因があるか知ることで、私がどう変わればいいかわかってくる。


──親父の親父──


もともと親父の親父(わたしの祖父)は学校の教師で、親父はその父親に反発を感じて生きてきた(そうだ)。
疎遠な感じだったが、親父は私の祖父よりももっと厳しく教育した。
人の心の因縁を感じる。
代々受け継がれた、もっとも強いしわ寄せが私にきてしまった。
先祖代々の呪い」と岩波英知先生が言っているが、まさしく私は一番呪いのパワーを受けてしまった。
私の親父は、幸せに生きたかどうかわからないが、少なくともうつになっていなかったからだ。

学校の教師の息子というのもひどくうつなどで病みやすいらしい。
人様の子供にしっかり教えているようだけど、自分の子供だけは教育ができないのは笑うより仕方がない。
教育とは、心を本来育てるべきものだろう。
心がない人間が教育をしてはいけないと思う。

ここまで分析していても、最初はイライラするような、圧迫感を感じた。
眉をしかめるような過去を思い出し、許せない気持になった。
書いているだけで息苦しかった。

が、ここでやめたらせっかくのルーツ分析が無駄になってしまう。
壁を突破したら楽になるという話を信じ、それでも分析を続けたのがよかった。
これだけ眉をしかめることが、その段階であったのだから、いま生きづらいのも当たり前だと思うことにした。



──出世コースに乗って──

ともあれ、親父に殴られないように必死に勉強してうまく出世できるラインにのった。
高校でもほとんど学年一位で過ごし(うまくやり終えたと同時に綱渡りでもあった)、第一志望の国立に行けた。
合格発表の時は非常に嬉しかった。苦労が報われたからだ。
人生が開けているように思えた。
まさかうつになるとは思いも寄らなかった。
一寸先は闇である

うつになる前の私の最大の幸せはこの瞬間だった。
しかし、考えてみると、果たして私の本心から、その大学に通いたかったのだろうか?
高校の時も小学生の時と同じく、親父のために勉強していたようなものだった……
完全主義者だし、勉強も人より要領よくやっただけだ。

入った大学でものびのびとやっていけた(と当時思っていた)。
一人暮らしは許されなかったため、家に帰りたくない一心でサークル活動に精を出した。
バイトもたくさん入れた。
リーダーとして部員を引っ張り、いつもエゴを満たすことが出来ていた。

そのときまでに抑え込んでいた親への反発心が急速に芽生え始めた。
やっと自我に目覚めてきたということかな
いつも親父を怒鳴りつけて、ぎゃふんと言わせてやろうと考えていたが、悲しいことに幼少期からの習慣からか親父の前では蛇ににらまれた蛙になった。
シミュレーションをしても、親父の前だと萎縮してしまう。
内地蔵外弁慶という状態である。

どんどん私の心の中に鬱憤と劣等感がたまっていった。
ストレスもより感じるようになっていった。
そんな萎縮した心でも、親父に対して反発心を見せようと努力はした。
親父とは進路で対立し始めた。

親父の望むとおりに生きてきたに過ぎないと心のどこかで感じ始めてむなしさを覚えていた。
もっともっと自分の望むとおりに生きようと思った。



──初めての反発──

官僚になろうかと思ったが、両親がそれを望んでいたため、初めて私は反旗を翻した。
まだ当時伸び盛りだった会社に入社した。
親父はすごく反対したが、自立という名目で東京で一人暮らしをはじめて、親父の抑圧圧政下からはずれた。
ホッとした気持ちを今でも覚えている。

猛烈に怒られたが私にも意地があった。
まだまだ反発心と意欲があった。
うつ時から考えると、不思議なほどあった。
この家にいたら私はダメになると無意識で感じていたのだろうか。

親父への萎縮の歴史を振り返ると、このときの行動は自分で自分を褒めていいと思っている。
どちらにしても私にとって、親父のひいたレールから外れることは必要不可欠なことだった。

だが、入った会社ではじめて挫折する。
精神的にやられてしまった…。
世の中うまくいかないことの方が多い。
完璧主義者だった私は、それが許せなかった。ストレスがたまった。
親父から肉体は離れようとも、小さい時から受けた影響まで外せなかった…

そのころでも完璧を目指し、最大限努力しようという自分が、不都合な生き方とは考えていなかった。
しかし、どうも状況が芳しくない。
うつになる人は、漠然とした息苦しさに直面した時、さらに頑張ってしまう人が多いと思う。
私はそういうタイプだった。
見えない闇に拳で立ち向かったようなもので、ただ疲労とストレスが溜まっていった。

 

──猛烈に働く──


何でも強烈にやらなければ気が済まない私は、会社の中でも猛烈に頑張った。
睡眠時間などおかまいなしで、残業をするのは当たり前だったし、土曜日も出勤していた。
周囲はそんな私を困りもの(周囲との調和を崩す)として扱ったが、当時の私は周りをゆっくり見渡す余裕はなかった。
本当に視野が狭い生き方をしていたと思う。
要領の良さが全くなかった。

上司の受けだけは当時は良くて、同僚よりもはやく出世し、成功への階段を上っていた。
逆に頑張ることが出来ない同僚を見て不思議に思った。
なんでやり抜かないんだろうと理解できなかった。

享楽的に酒を飲んだり、女遊びをしたり、遊びにかまける奴らを見下していた。
まあ、 同僚も私を厄介者だと思っていたのだから同じだ。
人間関係でうまく行かなくとも、人目を気にしない強い(?)心が私にはあった。
悪い意味で、わがままとも言えるが。
つまり親父のようにいつの間にかなっていた。
全く柔軟性がない私は、愚直にただ邁進し、進めば進むほど泥沼に足を取られるようになっていった。

見下していた同僚とはその後に地位が逆転することになる。
それも私の生き様と親からの教育と視野の狭さが原因だった。
当時、うつになるなんて思ってもいなかった。

うつは、今も一般常識かもしれないが、根性が足りないたるんだ精神から起きることだと思っていた。
人生は、一寸先は闇
完全主義者ほど、逆境に弱く打たれ弱い

外ばっかりに目がいっていた私は、ある時、パワーが出ない自分に気づいていった。
内側を意識してはじめて自分のもろさに直面せざるを得なくなった。
親父の「〜ねばならぬ」という思想が、ストレスと抑圧への耐性を脆くしていた。
私はメンタルタフネスがありそうで、実はまったくなかった。

限界まで酷使された自転車のチェーンのように、遊びもなく、伸びきり、さび付いて、がたがたになっていた。
それでも進もうとしてしまう。
うつになるまでまだ時間があった。
しかし、確実に着実に私はうつへの階段を登っていたのだった。

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